臓腑病機の歴史 十二、室町から江戸 |
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十二、室町から江戸(元から明・清)にかけての日本
留学・輸書籍・帰化中国人・来日中国人・朝鮮通信使などを通して学ぶ。
(1)《日本からの留学者》
李経緯『中外医学交流史』湖南教育出版1998より
竹田昌慶(1338-80)、
山科景紹、
僧月湖、
坂浄運、
田代三喜(1465—1537)、
和気明親、
僧昌虎、
吉田宗桂、
古林見宜(1579-1657)、
金持重弘、
吉田意休、
安部将翁(1666-1753)、
三喜は杭州で月湖に学び彼の『類証弁異全九集』(1452)持ち帰ったとされる。
(2) 《来日(長崎)中国人・帰化人》
李経緯『中外医学交流史』湖南教育出版1998より
陳宗敬、
曽彦、
許儀後、
載曼公(1596-1672僧名・独立性易)、
王寧宇(?-1660五雲子)、
陸文斎、
陳振先、
朱来章・朱子章、
周南(慎斎)、胡
振(兆新)、
張膏、
馬栄于・
北山寿安(友松子?-1701)
(3) 《輸入医書と和刻》
以下は、真柳誠「江戸期渡来の中国医書とその和刻」『歴史の中の病と医学』1997思文閣より要約
江戸期には医方、本草、傷寒,金匱、内経 (含難経)、鍼灸、痘疹など各分野に亘って中国医書が渡来し、そのうち三百書目余りが日本で復刻された。
渡来医書の和刻率はおよそ30~50%だが、鍼灸は90%を超えていて需用が大きかった。
内容別の和刻時期は、内経・難経の注釈本は江戸前期に集中し、傷寒、金匱、痘疹は中期・後期に多い。金匱は単経本(注釈本から経文だけ抜き出したもの)が多かった。
渡来書ベストテン(巻数多い)
①『本草鋼目』52巻
②『医宗金鑑』92巻
③『薛氏医案』10-24
④『景岳全書』64巻
⑤『錦嚢秘録』49巻
⑥『張氏医通』16巻
⑦『千金要方』30巻
⑧『瘍科大全』40巻
⑨『医宗必読』10巻
⑩『証治準縄』44巻
和刻書のベストテン(巻数少ない)
①『医方大成』一巻
②『万病回春』八巻
③『十四経発揮』三巻
④『傷寒論』十巻
⑤『金匱要略』三巻
⑥『運気論奥』三巻
⑦『格致余論』一巻
⑧『難経本義』二巻
⑨『正伝或問』一巻
⑩『原病式』一巻
和刻渡来医書の成立年代では、前期の和刻ピーク期(1651-1660)は金・元・明のものが多く、後期の和刻ピーク期(1791-1800)は『傷寒論』研究書の需用で清代がやや多かった。
『傷寒論』と『万病回春』を除くと、全江戸期の和刻本のベストセラーは三巻から一巻の薄い書だった。 (『医方大成』一巻は、医書大全『』二十四巻からの抜粋、『正伝或問』一巻は『医学正伝』八巻からの抜粋)
中国医書の渡来回数に全期を通じて極端な変化はなかったが、中国医書の和刻本は、前期に集中し中期以降は徐々に減少した。
中国医書の和刻が減少に転じたころから、日本人著述の医書の刊行が増える。
前期は中国医学を集中的に受容したが、中期以降は医学の日本化が進んで日本書の出版が増えた。
(以上、真柳誠「江戸期渡来の中国医書とその和刻」『歴史の中の病と医学』1997思文閣より要約)
(4) 《腹診書・鍼灸書引用の中国文献例》
日本のオリジナルである独立した診断法としての腹診は、室町から江戸初期にかけて開発された。
初期の腹診書には腹部に臓腑を配当するものがあり、鍼主薬従のもの(『意仲玄奥』など)と薬主鍼従のもの(『五雲子腹診法』など)がある。
江戸後期には、薬物と腹部の状態を一対一で(臓腑配当なしで直接)対応させる腹診書が多く出てくる。
このうち臓腑配当を用いる腹診書は、当事の宋・元・明の医書からの引用を行い、医学理論を吸収している。
①『小児薬証直訣』1119・
②『儒門事親』1228・
③『格致余論』1347・
④『医経溯洄集』1368王履(安道)・
⑤『医経小学』1439(劉純)・
⑥『赤水玄珠』17世紀(孫一奎)・
⑦『医学正伝』1515(虞摶)・
⑧『類經』1642
『意仲玄奥』1699 ・・・・④以外のすべてに言及。
『鍼灸節用集』・・・・・・③.④.⑥に言及。
(5)、《田代三喜と曲直瀬道三以降の日本》
以下は遠藤次郎説の要約
田代三喜(1465—1537)は、既存またはオリジナルの基本処方に、弁証配剤による加減方を加えて処方をしていた。
三喜の弟子が曲直瀬道三(1507—1594)である。
道三の著書『啓廸集』には、六十数種の医書が引用されている。
頻度が高いのは『医学正伝』1515虞摶、『玉機微義』1396劉純、『医林集要』1482王璽『丹渓心法』1481丹渓原著・充程篇、などである。
道三は既存の処方に頼ることなく、一から処方を組み立てた。
その方法は「察病弁治」と呼ばれ、今日の弁証論治(病因病機を考察し患者の状態に適した薬物を選び処方を組み立てる)と同じものである。
しかし二代目の曲直瀬玄朔になると既存の処方を使う方法に戻ってしまい、江戸時代には「基本処方とその加減」を基にした『衆方規矩』(岡本玄治口述?)や、経験方中心の『古今方彙』(甲賀通元)がベストセラーとなった。
結局江戸期には「加減方」から「経験方重視」へと変わっていって、道三の「察病弁治」は定着しないまま今日に至る。
(遠藤次郎「『啓廸集』と日本医学の自立」・第二回日中韓医史学会シンポジウム論文集2010より要約)