人性三分説トリコトミー(霊魂三分説)の否定と 八六九年第八回公会議(第四コンスタンティノプール会議) |
人性三分説トリコトミー(霊魂三分説)の否定と
八六九年第八回公会議(第四コンスタンティノプール会議)
2010/12/27
「東洋医学に何ができるか⑪」 (『月刊東洋医学』緑書房・第二十三巻第七号1995-7)に記載した、『八六九年のコンスタンティノプールにおける第八回公会議』という部分は、高橋巌『神秘学序説』の以下の部分から引用した。
高橋巌『神秘学序説』イザラ書房 (1975)
P49-50(段落と*は引用者による)
「ヨーロッパの伝統的な学問体系の中では、心(魂)と精神(霊)は常に曖昧のまま残されてきた。
わが国においても、心(Psycho)の分析を意味するPsychoanalyseが精神分析と訳され、心の病気が精神病と呼ばれているように、本来主観的なものである「心」と、本来客観的なものではあるが、シュミットがいうように、人間が「自己の個人的領域」として持っている「精神」とはまったく混同されている。
平凡社版の『哲学事典』(一九七一)の「精神」の項の解説も、この二つを区別していない。また有名なクラーゲスの心と精神との区別も、心の側から精神を否定的に論じるために立てられたものである、といえる。
オットー・ヴィルマンの名著『理想主義の歴史』(全三巻 一九〇七)を読むと、その第二巻五四節に、心(魂) と精神(霊)とを区別する見方が公式に異端となったのは、八六九年のコンスタンティノプールにおける第八回公会議(*)以後のことである、と書かれている。
人間は肉体ゾマと魂プシケと霊プネウマから成立っている、という古代インドからキリスト教的グノーシスにいたる古代神秘学に共通の人性三分説トリコトミー(霊魂三分説)はこの会議で否定され、人間は肉体と魂から成る存在であり、知性、霊性、意志等は単一の存在である魂の属性であると考えられるようになった、というのである。」
(*)文中の「八六九年のコンスタンティノプールにおける第八回公会議」とは、カトリックが公会議と認めている(正教会は第七回までしか公会議を認めない)通算で第八回目の会議のこと。(コンスタンティノプールにおいてひらかれたものとしては四回目なので第四コンスタンティノプール会議とも呼ぶ)
この第八回公会議(第四コンスタンティノプール会議)では、フィリオクェ問題などにより東西教会に対立が生まれた。フィリオクェ問題の核心は、聖霊が父からのみ発するのか、子からも発するのかという点らしい。
オットー・ヴィルマンの「心(魂) と精神(霊)とを区別する見方が公式に異端となった」という説は、フィリオクェ問題に関することを言っているのかもしれないが、詳細は原本に当たっていないので不明。
追加の日本語文献資料・・・・R・シュタイナー『魂の隠れた深み』イザラ書房(1995)
西川隆範による解説p169
「西洋製神史における大きな転換を、第八回公会議 (八六九) は象徴している。
古代文明においてなされてきた、人間を身体・心魂・精神の三つからなるものとする見方が否定され、人間は身体と心魂のみからなるというドグマが打ち出されたのである。
それにもかかわらず、トマス・アクイナスなどは人間を身体・心魂・精神からなるものと見ていたが、デカルトにいたって心魂は精神と名づけられ、人間は精神と肉体からなるものといわれるようになった。」
参考1
グノーシス主義と、人間性の三区分説について
湯浅泰雄『ユングとキリスト教』講談社学術文庫1996の、第二章と第三章の内容要約抜粋。
第二章 グノーシス主義
一 キリスト教徒グノーシス主義・・・199
『アイオーン』/グノーシス主義とは何か/グノーシス研究の問題点
P209グノーシス主義と実存哲学の関係について
二、グノーシス的宇宙観と人間観・・・214
グノーシス神話の宇宙観/キリストの三重身と人間性/
グノーシス体験における深層心理的心像/両性具有の理念/近親相姦タブーの克服
P214世界の三つの秩序
P215正統キリスト教がグノーシス主義を異端とみなした理由
P216グノーシス主義の宇宙創成神話
P219流出理論と創造理論の対決
P220三重身について
P221原グノーシス主義の特質四点(荒井献説)
P222オリゲネスについて
P224観想・主の霊との融合・プシケとロゴスが結合とプノイマへの変化・
キリストと人間は同じ神的本質を持つ
P224-225西方教会教義・・・唯一の神人キリスト、無からの創造、
神性と人間性の断絶など
三、キリスト教教義の深層心理学的考察・・・・249
善の欠如としての悪/無からの創造
P254トマスの存在論(悪は実体として存在しない。形相は存在し質料は存在しない。
神は最高善、質量的なものは悪。悪は善の欠如。)
・・・・グノーシス主義との対決(物質界は悪神デニウルゴスの創造と支配の元にあり
悪は実体として存在する)
P273教父哲学がグノーシス主義にたいして全面的勝利を収めた直接の理由
・・・ローマのキリスト教公認以後、救済や恩寵の問題が哲学論争の次元から
世俗的教会制度の問題に移項してしまった点
第三章 正統と異端・・・278
一、三位一体論の形成・・・278
ニケーア公会議/三位一体論の問題点/バビロン神話とエジプト神話
二、三位一体論における神性と人間性・・・298
東方教会のキリスト論/聖母崇拝/第四者としてのエロスと悪摩/
三位一体と錬金術
P301オリゲネスの御子従位論と、フィリオクエ問題
三、正統と異端の分岐点・・・322
正統信仰の確立/アウグスチヌスの三位一体論と深層心理/
P326霊肉二元論の確立について
参考2
フィリオクェ問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・・・抜粋し一部補充
フィリオクェ問題(フィリオクェもんだい)とは、ニカイア・コンスタンティノポリス信条(第2回 381年 第1コンスタンティノポリス公会議 )の解釈・翻訳をめぐる問題である。キリスト教の神学上最大の論争のひとつで、カトリック教会と正教会の分離、いわゆる大シスマ(東西分裂)の主因となった。・・・「フィリオクェ」という語はラテン語で「〜と子」を意味する “filioque” の転写である。
ニカイア・コンスタンティノポリス信条(ニケア・コンスタンティノープル信経)のギリシア語原文では(聖霊は)
ἐκ τοῦ Πατρὸς ἐκπορευόμενον
父より出で
としていた。しかし、9世紀になってからカトリック側が、このラテン語訳の「父から (ex Patre)」の後、「出で (procedit)」の前に「と子(から)(Filioque)」と付け加え、全体で(聖霊は)
ex Patre Filioque procedit
父と子から出て
とし、これを正文であると主張したためにコンスタンティノポリス教会側が反発した。・・・
この対立そのものはフォティオスの存命中に終結した。イグナティオスはいったん政治的に勝利を収め、フォティオスは破門の上、追放刑に処された。しかしのちに名誉回復しコンスタンティノポリス総主教に復帰した。東西教会の分裂も一応は調停されたが、この対立の間に召集された第4コンスタンティノポリス公会議の正当性をめぐる意見の相違など、両教会の間には亀裂が残った。「フィリオクェ」をめぐってはその後も東西教会で見解が一致せず、結局1054年の大分裂を生んだ。現在でも正教会では「聖神(聖霊)は、は父からのみ発出し、子を通して派遣される」としている。
参考3公会議について・・・・ウィキペディア(公会議)より抜粋
公会議に関しては、キリスト教の各教派によってその重要性の解釈は異なっている。
①カトリック教会では、325年の第1ニカイア公会議から1962-65年の第2バチカン公会議までの21回の公会議を認めている。
②プロテスタント諸教会は(宗教改革期以降の公会議はもちろんのこと)すべての公会議を認めているわけではないが、特に初期の数回の公会議の重要性は認識されている。
③正教会は基本的には787年の第2ニカイア公会議(第7回公会議)までの7回の公会議のみを認めており、それ以降は西方教会の地方教会会議であると認識している(決議の有効性は認めず)。
カトリック教会が有効と認める公会議 [編集]
正教会ではローマ・カトリック教会の称する「第8回」以後は(全地公会としての要件を欠いた)ローマ・カトリック教会の地方的会議であると捉えている。また、正教会では以下に挙げる「第8回」は後に追放されたフォティオスが復権するなどして一旦棄却されたという歴史的事実があるので(全地にせよ地方にせよ)公会議として扱うこと自体を不当としている。
第8回 869年-870年 第4コンスタンティノポリス公会議 –
第9回 1123年 第1ラテラン公会議 - ヴォルムス協約を承認、初めて西ヨーロッパで開催。
第10回 1139年 第2ラテラン公会議 –
第11回 1179年 第3ラテラン公会議 - コンクラーヴェのシステム改正(2/3の多数決制)。
第12回 1215年 第4ラテラン公会議 –
第13回 1245年 第1リヨン公会議 - 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を教会の敵対者として非難。
第14回 1274年 第2リヨン公会議 - コンクラーヴェの制定。ギリシャ教会との合同を模索。
第15回 1311年-1312年 ヴィエンヌ公会議 - テンプル騎士団の解散を命令。
第16回 1414年-1418年 コンスタンツ公会議 -
第17回 1431年-1445年 バーゼル公会議、
第18回 1512年-1517年 第5ラテラン公会議 –
第19回 1545年-1563年 トリエント公会議 -
第20回 1869年-1870年 第1バチカン公会議 - 近代思想を否定し、教皇不可謬を宣言。
第21回 1962年-1965年 第2バチカン公会議 –
西方教会・正教会から有効性を認められている公会議 [編集]
第1回 325年 第1ニカイア公会議 –
第2回 381年 第1コンスタンティノポリス公会議 –
第3回 431年 エフェソス公会議 –
第4回 451年 カルケドン公会議 –
第5回 553年 第2コンスタンティノポリス公会議 -
第6回 680年-681年 第3コンスタンティノポリス公会議 -
第7回 787年 第2ニカイア公会議 –第7回までは正教会でも有効性が認められ、全地公会議と呼称される。
正教会においては第7回以降、全地公会議として認められる公会は存在せず、地方公会があるのみである。