中畑正志解説-アリストテレスの『魂』-4 魂と身体の関係① |
中畑正志訳・アリストテレス『魂について』京大出版会2001
中畑氏による解説の構成は、以下のようになっている。・・・大項目の数字は引用者によるこのうちのⅠ <魂>という概念
Ⅱ 内容概観
Ⅲ どのように読まれてきたか
Ⅳ 成立および統一性
Ⅴ 諸問題
Ⅵ テキストおよび翻訳Ⅴ 諸問題の部分をメモする。三、魂の定義(1) 二つの定義
(2) 魂と身体の関係
(3)魂と心
(4) 魂の概念の示唆するもの
なお「魂」は、ギリシア語のプシューケー(Psyche, 希: Ψυχή)の和訳である。
ポイント・・・魂を身体の現実態とする定義A
その内容は・・・それ自体として独立に考察されるに値する意義を内蔵している
・・・二元論と対比されるかぎりでは、これは一元論的見解であると言ってよい
・・・またここには、プラトンに帰されるような魂と身体の
二元論的理解に対する批判が含意されている
三 魂の定義・・・・強調の太字と改行は引用者による。
(2) 魂と身体の関係・・・p248
以上のように、魂を身体の現実態とする定義Aは、諸能力に依存する定義Bに対しては一歩退いた身分であると考えられるが、その内容は、当時の知的風土においても、また現代の心身問題あるいは心身関係論に照らしても、それ自体として独立に考察されるに値する意義を内蔵している。
この魂の一般的定義によれば、魂は身体の現実態である。
精神と身体=物体とを実体的に区別する二元論と対比されるかぎりでは、これは一元論的見解であると言ってよい。
またここには、プラトンに帰されるような魂と身体の二元論的理解に対する批判が含意されているというのも間違いではないだろう。(1)
だが、魂と身体との関係をそれ以上に精密に語ることは容易ではない。
アリストテレスのいくつかの発言が単純に総括することを許さないからである。
まず何と言っても、第三巻第五章の所謂「能動理性」すなわち「作用する思惟」の問題、特にそれが身体から離存するという主張(にすくなくとも見えるもの)をどのように考えるか、という問題がある。
第二に、その難問にはとりあえず目をつぶるとしても、身体の現実態という魂の規定自体も、さまざまな解釈を施されうるし、事実そうされてきた。
おそらく最近解釈者たちの多く(けっしてすべてではない)の見解は、次の理論的範囲に収まるだろう。
それは、アリストテレスが、魂が身体性を伴わずに存在しうると考えるような二元論者でもなく、また魂の状態の各タイプが身体の状態の特定のタイプに完全に還元されるという強い意味での物質主義者(materialist)でもないという事である。(2)
それでもこの二つの理論的極の間には、いまだだ広大な理論的特定の可能性が残されており、実際、多種多様な解釈―そのなかにはある種の二元論さえもが含まれる―が提出されている。
その中で比較的有力なのは、アリストテレスの見解を一種の機能主義と考える解釈であろう。(3)
機能主義(functionalism)とは、直観的な説明を与えれば、「心が。特定の状態にあること(例、痛み)にとって重要なのは、脳または身体が特定のタイプの生理学的ないしは物理的状態にあること(例、C-繊維の興奮)それ自体ではなく、その特定の身体の状態が有機体全体の他の状態や行動との関係において果たす因果的役割(機能)である。という見解である。
その役割が果たされるかぎり、それを実現する状態がいかなる物理的性質であろうと、その心理状態であることには変化はない」
この機能主義は、アリストテレスが魂を鋸における切断の機能に喩えていること(第二巻第一章四一二b一〇-一五)などとうまく整合するように見える。
しかしそれ以外にも、たとえば魂の状態は身体の状態そのものではないがそれに付随して生起する状態(supervenient)である、という身体と魂の関係をより弱く捉える解釈などをはじめとして、多様な解釈が提示されており、いぜんとして議論は収束しそうもない。
つづく