悟性と理性の区別・・・ようやくわかってきた |
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《ヘーゲルは、・・・
「思惟というとき、私たちは、と言って、「悟性」と「理性」における思惟を、
有限な単に悟性的な思惟と、
無限な理性的な思惟を区別しなければならない」
それぞれ有限な思惟と無限な思惟としてとらえている。
こうした考え方がカントに由来することは、ヘーゲル自身が
「カントによってはじめて悟性と理性とがはっきり区別された。と書いてある点からも明らかである。》
カントによれば悟性の対象は有限で制約されたものであり、
理性のそれは無限で制約されぬものである」
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上山春平『歴史と価値』は、二十年ほど前に図書館から借りて、
一冊まるごとコピーし、四分割して製本。
いつか読もうと思ってそのままになっていた。
正月休みに本棚を整理して、久々に手に取り読み始めた。
アリストテレス→プラトン・・・→カント→ヘーゲルという流れでプラトンの、に対比させると良く解るということらしい。ノエシス・をカントの、
ディアノイア・
ドクサ理性・
悟性・
感性
プラトンは『国家』第六巻の「線分の比喩」において、認識対象と認識能力について、まず大きく「知性的なもの」と「感性的なもの」に分けて、そのうち知性的なものにより大きな重要性を認めた。
さらにそれぞれを、二つに分け、知性的なものは、「イデア」と「数学的対象」に分け、分けた。
感性的なものは、「物的対象」とその「イメージ」に
重要性の比率は「知性」が「感性」に勝っており、知性:感性=イデア:数学的対象=物的対象:イメージとなっている。
数学は、仮定を自明の真理とみなして、
仮定から結論に向かって推論を演繹的に進める。
イデアによる推論つまり哲学は、
仮定を基礎づける前提としての仮定にさかのぼり、
ついに仮設的でない究極の前提としての「原理」に到達して、
そこから方向を逆転して結論の方に向かって進む。
その場合に、その推論にはイデアだけを用いて感覚的な対象はまったく用いない。
プラトンのいう弁証法は、イメージや感覚的対象をまったく用いないイデアのみによる思惟方法のこと。
上山氏の訳によればイデアの認識は、ノエシス・・・理性
数学的対象の認識は、ディアノイア・・・悟性
感性的な(物的対象とイメージ)の認識は、ドクサ・・・感性
と呼ばれる。
さらにヘーゲルは、
理性を「無限な思惟」
悟性を「有限な思惟」と対応させているという。
それが冒頭に引用した部分である。